歴史

古海巨氏 逝去

「サイレント」紙の創始者であり主宰であった古海 巨 氏が、脳出血による心不全のため、1980年(昭和55年)3月12日午前10時8分、東京医科大学病院にて逝去されました。享年57歳でした。

通夜には引きも切らぬ多くの参列者が訪れ、氏の広い交友関係が偲ばれました。

古海氏ほど、毀誉褒貶(きよほうへん:称賛と非難)の渦中に立たされた人物は他に類を見ませんが、評価は人それぞれであるにせよ、「新聞の虫」として生涯を貫き、一時代を築いたその功績は、誰しも認めざるを得ないものです。

氏の死去により、大黒柱を失った「サイレント」紙および「サイレント文化連盟」の今後が注目されていましたが、1980年8月15日〜17日に北海道帯広市で開催された第5回全国サイレント文化大会において、「サイレント」紙の無期限休刊、「サイレントスポーツ連盟」の解散が正式に決定されました。

(出典:「聴障画報」1980年 No.5・No.6 合併号)

過去の肩書き

  • 1:

    日本聴力障害新聞・元編集長

  • 2:

    元全日本ろうあ連盟常任理事

  • 3:

    「サイレント」紙の創始者

亡父の遺稿集『映画に生きた古海卓二の追憶』

亡父の遺稿集『映画に生きた古海卓二の追憶』を出版し、各界に話題を呼んだ本紙編集長・古海 巨 氏の出版祝賀パーティが、去る6月16日夜、東京・東中野の「モナミ」にて開催されました。

発起人は、本紙編集委員の伊藤允義氏・井上亮一氏の両氏に加え、落合孝吉氏らで、当日は25名のインテリろう者が集まり、盛大な会となりました。

自らの手で遺稿集を出版したことは、ろうあ界では初めてのことであり、古海氏の労をねぎらうと同時に、今後の道標として参加者に大きな勇気と自信を与える、非常に意義深い集まりとなりました。

また、この出版パーティには『名もなく貧しく美しく』で知られる脚本家・松山善三先生も参加者のひとりとして祝いの言葉を贈り、集った人々に深い感銘を与えました。

なお、古海 巨 氏の亡父・古海 卓二 氏は、かつて映画監督として名を馳せ、昭和5年に初めて『旗本退屈男』を世に送り出したのを皮切りに、およそ100本におよぶ映画作品を手がけました。

映画界に入る以前は、「獏与太平(ばく・よたへい)」というペンネームでオペラの脚本を執筆しており、その時期が最も華やかだったと言われています。詩人・藤浦洸氏の言葉を借りれば、「卓二氏こそ、大正時代をエンジョイして盛名を馳せた人物」とのことです。

また、東京放送で『瘋癲老人日記』が放送されジャーナリズムで話題を呼んだ際、作家・谷崎潤一郎氏の初放送作品において妻の役を演じた女優(当時・日活専属)の紅沢葉子氏は、古海編集長の実母にあたります。

(出典:『日本聴力障害新聞』より)

日本聴力障害新聞 ― その創刊と発展の歴史

現在の『日本聴力障害新聞』の起源は、1931年(昭和6年)6月に大阪で大中次郎氏が発行した『聾唖月報』にさかのぼります。しかし、経営難により5年後に廃刊となりました。

その後、1947年(昭和22年)、全東京聾唖協会の黄田貫之氏(大阪市立ろう学校出身)と古海 巨 氏(大阪府立生野ろう学校出身)らによって『聾唖新聞』が創刊されましたが、こちらもまた経営難に直面しました。

1949年(昭和24年)6月には、大中次郎氏の『日本聾唖新聞』、神戸ローアクラブ・広畑肇氏の『近畿ローアニュース』、そして古海巨氏の『聾唖新聞』の3紙が合併し、名称を『日本聾唖ニュース』と改めて再出発。これにより経営が安定し始め、読者数も増加していきました。

1952年(昭和27年)1月、『日本聴力障害新聞』へと改題され、現在の名称となります。

古海巨氏の経営改革と「日聴紙」の骨格づくり

1957年(昭和32年)4月号では、物価高騰による経営難を打開するため、古海巨氏が社説「今後の本紙経営の在り方について」を寄稿。以下のような提言を行いました。

1. 本紙の経営権を無償で全日本ろうあ連盟(全日ろう連)に委譲する
2. 独立採算制とし、全日ろう連の機関紙として有料で頒布する
3. 全日ろう連の機構・組織を活用して新聞の拡張に努める

この提案は、現在の『日本聴力障害新聞』の基本的な体制を形づくったものであり、「先見の明」と称されるにふさわしいものでした。

発行権の譲渡と混乱

同年6月、新聞発行の権利は正式に全日本ろうあ連盟に譲渡され、大中氏による個人経営には終止符が打たれました。

しかし、当時の藤本連盟長が譲渡の条件を無視して、東京の古海氏に発行権を譲渡したことにより、大中氏と藤本氏の間で深刻な対立が生じました。

古海氏は、市村栄氏(東京都立品川ろう学校教諭)の支援を得ながら、編集長として『日聴紙』の発行継続に尽力しました。

1959年(昭和34年)7月には、編集室を東京都新宿区戸山町の国立ろうあ者更生指導所へ移転し、発行体制を整えました。

まとめ

『日本聴力障害新聞』は、個人の志から始まり、複数紙の合併、組織化を経て、ろう者社会の情報と文化の発信源として成長を遂げてきました。中でも古海巨氏の果たした役割は極めて大きく、今日の新聞の姿に大きな礎を築いたといえるでしょう。

古海巨が最後に編集した、日本聴力障害新聞 1965(昭和40年)7月号

日聴紙物語「紙の機関紙」によれば、1965年(昭和40年)7月に古海編集長が、国際ろうあ者競技大会への役員派遣をめぐる抗議行動を起こした責任を問われて、連盟の常任理事を解任され、必然的に日聴紙編集長からも降ろされてしまった。日聴紙は7月号を最後にいきなり休刊となった--とされている。
その真相はいかなるものか、日本聴力障害新聞縮刷版・第一巻(前編)を中心に検証を試みた。この第一巻は完売であるが、全日ろう連加盟の都道府県ろうあ協会の事務所で閲覧が出来る。
同年6月27日から7月3日までの日程で、アメリカのワシントンで開催された、第10回国際ろうあ者競技大会(IGD・現在のデフリンピック)に日本が初めて参加した。
この国際ろうあ者競技大会に参加するためには、大会の開催団体である国際ろうあ者スポーツ委員会(CISS)に加入する必要がある。全日本ろうあ連盟に体育部というものがあったが、全日ろう連は福祉団体であるので、別に独立したスポーツ団体をつくる必要があった。
古海巨は日聴紙の編集長として、日本のろうあ者スポーツの意義と振興に関する記事を多く執筆した。国際ろう者競技参加対策委員会に大崎英夫常任理事らとともに古海理事も参加している。

1963年(昭和38年)3月17日に、東京都新宿戸山町の国立ろうあ者更正指導所において、日本ろうあ体育協会が発足した。会長 藤本敏文、副会長 奥田実・大崎英夫、理事長 園田良介
全日本ろうあ連盟は世界ろう者連盟に、日本ろうあ体育協会は国際ろうあ者スポーツ委員会に、それぞれ加盟を果たしたわけである。

デフリンピック協会(CISS)の会長来日

この写真は、デフリンピック協会(CISS)の会長(フランス人)が、日本の加盟を推奨するために来日された際のものです。中央で抱かれているのが、当時4歳の私です。
会長は約1ヶ月間、我が家に滞在し、父とともに日本政府と交渉を重ねました。父は、デフリンピックへの日本参加を実現するために奔走していたのです。

当時、全日本ろうあ連盟の傘下には「体育ろう協会」がありましたが、国からの助成金が出ないという問題がありました。そこで父は、体育ろう協会を独立させ「体育ろう連盟」を新たに設立。これにより国からの助成金を受けられるようになり、日本のろう選手たちはアメリカ・ワシントンで開催されたデフリンピックに、ついに初参加することができたのです。

古海巨の行動力と情熱が、日本のデフスポーツの歴史を動かした瞬間でした。

過去写真

横幕家の収蔵本

「映画に生きた 古海卓二の追憶」

日本ベル福祉会館

1965年(昭和40年)3月に、東京都目黒区碑文谷に「日本ベル福祉会館」が完成した。

横幕家の収蔵本

サイレント縮刷版(表紙カバー)